「大震災の年の秋に」講演@日本大学
2011年11月10日 15:55 - cityside - publiccomments - streetcorner (publicity)
『私が、今の皆さんと同じ年齢のとき、大学3年生の秋に、「アメリカ同時多発テロ」は起きました。ちょうどその1時間前、私はガールフレンドと横浜ランドマークタワーにいて、ドックヤードガーデンから地上70階の建物を見上げながら、もしもこれが倒れてくるようなことがあったらどうなってしまうのだろう、と話していました、、、。
そのときの私は、西洋思想史の研究室にいて、それとは別に、出版や広告の仕事に就くのだろうという漠然とした心づもりを持っていました。単に、文章を書くことやビジュアルをディレクションすることが好きで、それに対応する職業を多くは知らなかったのです。また、漠然とだけではなく、実際に大手の広告代理店に就職することを予定してもいました。家庭の事情でそうはなりませんでしたが。
5年後の2006年、私は、都市や建築やデザインに関わる諸々を生業にしながら、「日本にはパブリックという意味での公は存在しない」という命題と格闘していました。戦後の多くの人文科学の研究者たちが繰り返し指摘してきたこの命題は、言い換えれば、日本には欧米と同じやり方で民主主義を成立させるような精神的風土がないのではないか、ということでもあります。学部時代に学んだ問題設定と、まさかこんなところで再会するとは思ってもみませんでしたが、私が手掛けてきたもののうち、まちづくりや社会事業といった枠組みで語ることのできるものはもれなく、こうした命題への試行錯誤のあらわれです。
そして、今年の3月、東日本大震災が発生しました。近代日本にとっては、明治維新、太平洋戦争とならぶ出来事、存在を懸けた局面といってよいでしょう。大本営発表を想起させる政府や東京電力の対応があり、それを補完している経済団体や企業、専門家の姿がありました。しかし、私は、彼らに対してよりもむしろ自分自身に対して空恐ろしさを感じ、腹が立ちました。彼らを支えているのは高度経済成長期の社会条件を前提としたメンタリティであり、システムですが、私自身、そこから完全に脱却するような覚悟も方法も持ってはいなかったということが明らかになったからです。もちろん、高度経済成長期に作り上げられた既存の社会システムと現状との乖離が様々な社会課題を引き起こしていることに、私は人並み以上に意識的であったと思いますが、しかし肝心な局面で何も出来なかった。これが戦争だったらと思うと、私は心底ゾッとしました。震災復興は、前述の社会課題と対峙する形でなされなければなりません。あるいは、話しは「アジア型民主主義とはどのようなものであり得るのか」といったところにまで及ぶかもしれません。ガバナンスの機能不全によりトップダウンでの計画に実効性が伴わないことがわかった時点で、私は現地へと通うことになりました。そして、宮城や福島に向かう東北新幹線のなかで、いつもこのようなことが脳裏をよぎるのです。』(「大震災の年の秋に」「introduction」より)
田中裕人



